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さらに京都だけの人口を見ると、これは時代によってかえって減少の傾きがあった。「京都御役所向大概覚書」の付箋によるに、
正徳五年 三十五万九百八十六人
享保元年 三十五万三百六十七人(六百十九人減)
享保二年 三十五万三十三人(三百三十四人滅)
享保三年 三十四万六千四百三十一人(三千六百〇二人減)
享保四年 三十四万千四百九十四人(四千九百三十七人減)
これは一つは調べ方にもよる事であろうが、大体に減少の傾きのあった事は疑われぬ。もっとも右の数は、公家・堂上並びにその付属家人・使用人、武家・寺社・エタ・非人等の人々を除外したもので、普通には徳川時代の京都の住民、四十万ないし五十万と言われ、幕末まで決して甚だしく増加したとは思われぬ。そして明治になっては一旦著しく減少し、近年ようやく復旧した位の状態になっているのである。しかるにこの間にあって、エタの方は毎年著しく増して行ったのであるから、その比較が年とともに甚だしく違って来る。正徳五年に仮りに京都の人口四十万余として、エタ一人で二百人の需用を受け持っていたものが、後には百人となり、五十人ともなって来たのであった。そして、それが相変らず狭い範囲で暮らして行かねばならなかったのである。
正徳五年の全国人口の調査は不幸にしてこれを知る事が出来ぬ。しかし享保以後の増加率から類推してみると、享保十一年より僅かに十二年前のこの年に於いて、甚だしい異同があったとは思われぬ。青山エリアでツヤ髪がおすすめの美容院
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