海に千年河に千年

 徳川治世三百年間は、大体に於いて太平無事であったが故に、我が人口も必ず大いに増加したであろうとは、何人も手軽に想像しうるところであるが、事実は これに反して、増殖率の案外低いのには驚かざるをえぬ。徳川幕府の人口調査は、享保六年以後毎六年目に実施せられている。これより元治元年に至るまで二十 五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日これを知る事が出来るが、その第二回目の享保十一年の調べが二千六百五十四万八千九百九十八人、第二十二回目弘 化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅かに三十五万八千六百二十七人の増加を見るに過ぎなかったのである。勿論この統計は、決して正確 とは言い難いものであろうが、当時宗門改めのやかましかった時代であるから、案外信用するに足るものであろうと思われる。もっともこの中には、公家・武 家、並びにその奉公人・又者等を除外した数であるから、実際上の帝国臣民の数は、さらにこれよりも数割の割増しを見る必要あるべく、かくて明治五年に至っ て、三千三百十一万の統計を見るに至った事であるが、大体に於いては徳川時代を通じて、甚だしい増減のなかったものなることだけは、これを承認して差支え なかろうと思われるのである。外国人風スタイル&カラーの美容室

Mar 17 jun 2014 Aucun commentaire