海に千年河に千年

 基衡がいかに横暴を極めていたかの有様は、やはりこれも『古事談』に、  基衡が毛越寺を営むや、丈六薬師仏ならびに十二神将の彫刻を、当時の京都の仏師雲慶(運慶とは別人、かつて『歴史地理』上運慶と書いたのは誤植なり)に 依頼した。この時雲慶はこの田舎の富豪を馬鹿にして、非常なる貪り方を行ったものであった。『吾妻鏡』によると、  此本尊造立間、基衡乞支度於仏師雲慶。雲慶注‐出上中下之三品。基衡令領‐状中品、運功物於仏師。所謂円金百両、鷲羽百尻、七間間中径水豹皮六十余枚、 安達絹千疋、希婦細布二千端、糠部駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端也。此外副山海珍物也。三箇年終功之程、上下向夫課駄、山道海道之間、片時無 絶。又称別禄、生美絹積船三艘送之処、仏師抃躍之余、戯論云、雖喜悦無極、猶練絹大切也云云。使者奔帰、語此由。基衡悔驚、亦積練絹於船三艘送遣訖。 とある。かくていよいよその仏像が出来上ったところが、鳥羽法皇これを御覧になって、かくのごときの立派なものは洛外に出してはならぬとお禁じになった。 基衡非常にこれを憂い、七日間水漿を断って持仏堂に閉じ籠り、一心に仏に祈請を凝らしたうえ、九条関白に運動してもらってついに勅許を得たとある。これに ももちろん多額の運動費を使ったことであろう。イーデザイン損保‐自動車保険見積もり

Ven 6 jun 2014 Aucun commentaire